ラオスの世界遺産、一覧 全2カ所のリスト

公開日: ラオス 世界遺産

ラオスの世界遺産

ラオスには2カ所の世界文化遺産がある。いつの日かたっぷりと時間をかけてラオス2カ所、タイ5カ所ベトナム8カ所カンボジア2カ所の世界遺産を一気にまわりたいと思う。
ラオスには10数年前に一度、行った事がある。物価が安く、価格の割に飯が美味しくて、大自然が素敵なのんびりとした場所のイメージだが、この10年ちょっとでどのように変わったのか楽しみだ。

ルアン・パバンの町

仏教の聖地、ラオスの古都ルアン・パバン
1995年、世界文化遺産に登録

動画はワット・マイ

紀元前、海のシルクロードから東南アジアに仏教は伝り、その後、仏教を吸収したヒンドゥー教が広り、ミャンマー、スリランカから新しい形の仏教が伝わり、それらが融合して、今の仏教に進化したと言われている。
街にはオレンジ色の袈裟を着た丸い壺を持っている素足で坊主頭の僧がいて、人々は米やパン等をその壷にいれる托鉢の習慣が残っている。
ワット・マイには古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の黄金のレリーフが描かれている。
ワット・シェントーン、1560年に建てたラーンサーン王国の菩提寺。
ワット・ウィスンナラート、1513年にウィスンナラート王が建てたスイカを半分に切ったような寺。
ワット・タートルアン、1514年にウィスンナラート王が建てた寺で巨大なナーガ像がある。
ワット・パバートタイ、ベトナム様式の寺で黄金の寝釈迦仏がある。

ラオスの首都ビエンチャンの北約230kmにあり、ハノイまたはバンコクからルアン・パバンまで飛行機で直行便が出ている。

チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群

カオ山の麓にあるヒンドゥー寺院の廃墟でアンコール・ワットのルーツとも言われている。
2001年、世界文化遺産に登録

10世紀頃クメール人の進出が本格化した為、当時のクメール人の宗教、ヒンドゥー教をコンセプトにして作られたクメール王朝の寺院でアンコール・ワットより前に建てられたアンコールのルーツとも言える寺院。
14世紀にラオス人が進出してヒンドゥー教寺院ワット・プーに仏像を安置し、仏教寺院として利用した。そのため、今も寺院遺跡内には、ヒンドゥー教の飾りと仏像が混在している。ラオス語でワットは「寺」、プーは「山」で「山の寺」の意味。
ワット・プーはとても静かな場所にあり、観光客も少なく、自然と一体になった寺院遺跡を楽しむことができるらしいのでかなり楽しみな場所だ。

パクセの南バスステーションよりバスまたは乗合トラックで2時間~3時間位。パクセからはツアーも出ている。
麓の町チャムパーサックに泊まって、レンタサイクルやバイクで(約8km)訪れるのが一番ゆっくり出来そうだ。

ラオスの歴史から見る世界遺産

ラオスの歴史をウィキペディアで調べてみると中国、タイ、ベトナム、カンボジア、ミャンマーの歴史と深く交わっていて実に興味深い。特にタイの世界遺産である『スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町』と『古都アユタヤ』やカンボジアの世界遺産『アンコール遺跡群』に非常に深く関わりがある。

ラーオ族は紀元前に中国の四川省あたりから追われるように雲南省に移動し、滅ぼされる。
その後ラーオ族は各地へ拡散し、それぞれ独自の発展を遂げタイではチェンマイ王国、スコータイ王国を建国、ラオスではラーンサーン王国を建国。

これによってタイの世界遺産『スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町』出来る。その後スコータイを吸収してアンコール王朝を滅ぼすアユタヤ王朝によって『古都アユタヤ』が建設される事になる。

1540年、クメール帝国の首都アンコール・トムがアユタヤ王国の手で陥落。
このようにカンボジアの『アンコール遺跡群』などの世界遺産は歴史とリンクしている。

しかし、その後、アユタヤ王朝もビルマのタウング王朝に滅ぼされラオスのラーンサーン王国もタウング王朝の属国になる。

1706年、スリニャ・ウォンサーの孫がルアンパバーンにて独立を宣言。
ルアンパバーンと言えばラオスの世界遺産『ルアン・パバンの町』だ。

その後、アユタヤ王朝の計略によりラーンサーン王国のチャンパーサック地域もチャンパーサック王国として独立。ラオスの世界遺産『チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群』ではこういう事があったのかと興味が湧いてくる。

歴史背景を少し勉強するだけで世界遺産が数倍興味深いものになる。
これからは現地に行く前に少しでもいいから歴史を勉強してから世界遺産に行く事にする。

ラオスの歴史

紀元前5000年頃、黄河や揚子江の中間あたりまで南下し、ゴビ砂漠に興った漢民族に押し出される形で現在の四川省近辺に移住し、そこに都市国家(ムアン)を作る。
紀元前1000年頃には西安の北西、現在の重慶の位置にムアン・パー、長沙近辺にムアン・ギャオという都市国家を作る。
紀元前853年にはタタール族が北方より侵出を始め、ラーオ族はムアン・ルンを破棄しムアン・パーへ移住、その後、ムアン・パーも周に攻撃されムアン・ギャオへと移った。
紀元前215年にはムアン・ギャオも秦に攻撃され、ラーオ族はさらに南下し、現在の雲南省・保山近辺にムアン・ペーガイという都市国家を作る。
紀元前87年にムアン・ペーガイは滅亡する。その後、クン・メンの子孫にあたるクン・ワンによりムアン・ペーガイ独立が宣言されたが、これも長くは持たず、50年に後漢により再び滅ぼされた。

その後数世紀、ラーオ族に関する資料が存在せず詳細は不明

7世紀頃、6つのムアンが雲南省の大理盆地に建国される。
729年、皮羅閣王の時代にムアン・スイは唐の援助を得て6つのムアンを統一して南詔王国を建国。皮羅閣王は死後、唐より「雲南王」の王位を贈られるがその後、唐との友好関係は崩れ領土を広る。
902年に漢人の権臣・鄭買嗣が起こしたクーデターにより南詔王国は滅亡。滅亡を機にラーオ族は大移動をはじめ、インドシナ半島、ビルマ、アッサムなどの各地に散り、ムアンを形成。

各地へ拡散したラーオ族は、それぞれ独自の発展を遂げ、タイ北東ではチェンマイ王国、スコータイ王国を建国し、現在のタイ王国を形成していったタイ族の父祖グループと位置づけられ、メコン川上流のスワーにムアンを形成したグループはムアン・スワー、ラーンサーン王国を建国し、現在のラオス人民民主共和国の父祖グループと位置づけられる。国家にはならなかったがミャンマーのシャン州などにムアンを形成したグループなども人口としては多い。この頃よりラーオ族の民族の分化が始まったと言われている。

1238年、スコータイ王国を建国。

ラーンサーン王国時代
1353年、ラーオ族による統一国家、ラーンサーン王国を建国
1478年、大越(ベトナム)の聖宗は見世物用として白象を借り受けたいとラーンサーン王国に申し出た。しかし、白象は神聖視されている為、ワンブリー王はこれを拒否した。この件により大越(ベトナム)がラーンサーン王国へ攻め入る大義名分を与えてしまい、聖宗帝は50万の大軍でスワーへ攻め入り、王都は壊滅状態となった。
1550年、ラーンサーン王国でポーティサラ王が象競技中の事故で死亡した為、チェンマイ王国に対しセタティラートの帰国を要請。
1551年、セタティラート王はチェンマイ王国の王位を兼ねたままラーンサーン王国国王へ即位。しかし、チェンマイ王国ではセタティラートに帰国の意思がないとしてメクティが即位した。セタティラートはチェンマイ王国へ軍隊を侵攻させたが、メクティの勢力を排除できなかった為にラーンサーン王国とチェンマイ王国は悪化した。

1531年、ビルマ族が周辺諸族を制覇、タウング王朝を興す。
1540年、クメール帝国の首都アンコール・トムがアユタヤ王国の手で陥落。
1557年、タウング王朝はメクティ王政権下で混乱期にあったチェンマイ王国へ侵攻し、王都チェンマイを占領。チェンマイ王国は以降タウング王朝(ミャンマー)の傘下となる。
1570年、アユタヤ王国を滅ぼしたタウング王朝は、1571年、ラーンサーン王国へ侵攻を開始。
1638年、スリニャ・ウォンサーの57年に渡る執政下で、ラーンサーン王国も繁栄期と呼べる発展を遂る。スリニャ・ウォンサーの改革は税制、行政、兵制、隣国との平和維持活動も積極的に行い、越やアユタヤ王国との間で燻っていた国境の策定に尽力した。王都ヴィエンチャンはメコン川沿いの貿易港として当時有数の大都市へと発展を遂げた。

ラーンサーン三王国時代
1706年、スリニャ・ウォンサーの孫キン・キッサラートとインタソームの兄弟がルアンパバーンにて独立を宣言。
1713年、アユタヤ王国の計略でチャンパーサック地域もチャンパーサック王国としてヴィエンチャン王国から分離・独立させられラーンサーン統一王国の歴史は幕を閉じる。
1777年、ビルマがシャム(タイ)への攻撃を行い、シャムの勝利に終わるとその足でヴィエンチャンへ侵攻・同都を占領し、ヴィエンチャン王国を属領とした。
1778年、ルアンパバーン王国はシャムに占領され、シャムの属領となった。
1779年、チャンパーサック王国はヴィエンチャン王国とルアンパバーン王国を属領下に置いたシャムの侵攻を受け、シャムの属領となる。
1828年、シャム軍(タイ)によりヴィエンチャン王国滅亡。
1837年、チャンパーサックは大火事に見舞われ、王都をバーン・ヒートホート郊外に移す。その後1863年に再び遷都が行われ、メコン川西岸、ポーンポックとラコーン寺の間に移された。この時の遷都により作られた都が現在のチャンパーサックの基礎となる。

フランス植民地時代
1863年、フランスはカンボジアを保護国化。
1885年、清仏戦争により、清はベトナムに対する宗主権を失う。
1887年、黒旗軍(19世紀末に清朝地方で成立した武装組織)がルアンパバーン王国に侵攻し、壊滅的な打撃を受けたがフランスに助けられた事件をきっかけに、ルアンパバーン王国はフランスの保護を受け入れる道を選択。
1893年、タイ王国との間でラオスをめぐり仏泰戦争が起き、フランスはタイを圧倒。
1905年、保護国化を完了し、フランス領インドシナが完成。
1940年、タイとフランスとの間で仏印国境紛争が起る。
1945年、日本軍による仏印武装解除後、ラオス人の祖国・国民を構想する動きが活発になっていった。
1946年、第二次世界大戦中、日本の占領下でラーオ人の民族主義者らはフランスからの独立を宣言。しかし、日本の敗戦後、シーサワーンウォン王は、ラオスの独立宣言を撤回。
1946年、4月に再びフランス軍がラオスを制圧し、第一次インドシナ戦争が起きる。
1949年、フランス・ラオス協定で名目上独立。
1951年、カンボディア、ベトナムのホー・チ・ミン一派の抗仏組織らと「インドシナ合同民族統一戦線」を結成し対仏ゲリラ闘争を開始。
1953年、ベトナムおよびラオスのこうした状況から、フランスは植民地支配の終結を判断しラオス王国は完全独立。

内戦の時代
1960年、ベトナム戦争が始まる。ラオスはベトナム戦争の交戦国にとって隠れた戦場となっていた。
スワンナ・プーマ殿下らの中立派、チャンパーサック王家のブン・ウム殿下らの右派、スパーヌウォン殿下、首相カイソーンらの左派ネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)の三派間の争い。
1975年、ベトナム戦争が終わる。
1975年、スパーヌウォン最高人民議会議長兼国家主席を頭に置くラオス人民民主共和国が誕生。

公開日: : 最終更新日:2015/03/05 ラオス 世界遺産

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